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水面に波紋が拡がるように

  藤井仁子

 通過する列車の音、道に落ちた誰のものとも知れないストール、船が川を進むにつれて頭上にのしかかる黒々とした橋梁――そんな細部が不思議に謎めいたものとして心にかかるのである。そのうち見慣れたはずの東京の景色は何か別のものへとゆっくり変貌していく。

 『やがて水に帰る』と題されたこの映画で画面を行きかうのは、気に入りの若い者に仕事を世話することぐらい造作ないらしい老教授と婚期を逃しつつあるその令嬢、そして彼らに取り入ろうとする青年たちといった、あからさまに古風な設定をあたえられた人物たちである。時代はどうやら現代のようだが、偶然と必然のはざまでもてあそばれる彼らの探偵小説じみたところもある物語は、同じ水上都市としての東京を舞台とする近代小説の名作をあるいは想起させることだろう。だが、今さらそのような物語をまっすぐに語ることができると信じる愚はこの映画のものではない。策を弄したつもりで先の読めぬ人生のなりゆきに翻弄されるばかりの男女の物語は、かろうじて脈絡をたどれるほどに解体され、過去と現在と未来は一つところで渦をなし、水面に波紋が拡がるように輪郭を滲ませたかと思うといつしか流れ、漂う。

コメント

観客の推理力=想像力を掻き立てる

筒井武文

 高速道路下の水路から、満開の桜並木の隅田川河畔へと水辺の風景の移動ショットに、「東京は水の上の都である」に始まる字幕が重ねられることもあり、歴史ドキュメンタリーでも始まるのかと錯覚させるプロローグである。メインタイトルが出て以降も、水上の移動は、「偶然も3回続くと必然です」「3回?」と演劇の稽古のような口調で会話を交わす男女が船上に現れるまで続く。ドキュメンタリー的な印象は、劇中繰り返し、水路の移動ショットが出て来ることで維持される。もちろん、これはヒロイン雛子(前田亜季)の視点を仮構しているのだが、それでもマルグリット・デュラス的な亡霊の視線に見えてくる。つまり、船上に立つ雛子のショットが挟み込まれても、彼女の視線を強調しようとはしない。まして、物語上も、なぜ雛子が、あるいは雛子と石上(永里健太朗)が、船に乗ったのかは説明されない。まるで、船上からの流離う風景と物語は、分離したまま、共存しているようなのである。水路の移動は、たとえ橋の上に人が行き交っていたとしても、特定の物語的時間を持たない、匿名的時空間なのである。

 それに見合って、と言うべきか、物語自体も寄って立つべき、直線的時間を見失っていく。初夏に、元学友からの電話で呼び出されたフリーター(脚本によれば、大学院を中退した無為徒食の青年)の石上は坂道で拾ったサマーストールを網格子に結びつけたまま、場面は電話で父から実家に帰ってくるよう説得されている娘(と言っても、婚期を逃しつつある年頃である)雛子、そして正月の実家、つまり冬に移ってしまう。続くのは、奥多摩に向かう列車、乗っているのは、石上と彼を夏に呼び出した大学で助手をしている矢内(趙珉和)である。山道を歩き、立派な旧家にたどり着く。そこは矢内の先生(寺田農)の家である。そこでの矢内と先生のチグハグな会話の後、先生の命で二人は力仕事に駆り出されるらしく、門の外の車へと向かわされる。そこに現れる先生の娘の顔に驚く石上の表情が強調され、夏の神田・昌平橋の光景がフラッシュ・バックされ、ようやく冒頭近くのシーンで石上が呼び出された経緯が明かされ始める。回想の回想として、大学ラウンジでの石上と矢内の場面になるのだが、ここで、空舞台からパンして、それぞれのバスト・ショットになる謎めいたつなぎを3回繰り返すことで、この密談の重要性が強調される。石上は昌平橋の前のカフェから出てくる娘と待ち合わせる役を、矢内に替わって引き受けさせられるのである。代行という漱石的な主題が出現するのだ。その黒幕的依頼人が先生なのだが、陰謀を巡る物語がすでに始動し、車中の3人がその主要登場人物であることが、ここで観客の脳裏に刻まれることになる。

 そして、長い長い元旦の一日が続くので、榎戸耕史監督のファンだったら、デビュー作『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』の長い一日の持続の魅力を思い出さないわけにはいかないのだが、しかし、ここでの一日は、過去ばかりか、未来によっても寸断され、元旦自体の時間の継続性は崩れる。時間の現在性が限りなく希薄化していくのである。因果関係の解体により、観客は石上や雛子の感情に寄り添い、時空を彷徨いながら、陰謀の全容(と同時に雛子の内面)を探索していくことになる。とりわけ印象深いのが、雛子の視点で水路を彷徨うシーンで、「魔王」からの印象が残るなか(矢内が酒瓶を抱いて歌う)、シューベルトのピアノ三重奏曲の陰鬱でメランコリックな旋律が高鳴り、彼女の孤独を際立たせる。

 時間軸の錯綜する構成が、どの段階で芽生えたかは分からないが、とりわけ石上を演じる永里健太朗の戸惑った表情を生かす上でも、効果的に機能している。それは、説明抜きに、(矢内の代行の象徴だと後で知れる)帽子が登場するとか、彼の拾ったサマーストールとか、雛子の眼鏡、彼自身のコートといった小道具類と連動することで、どこまでが陰謀に関わってくるのか、観客の推理力=想像力を掻き立てる。二人が船上で、お互いが変われるかを議論する際、画面を横切っていく赤信号もそうだ。確信的な極めつけは、二人が将来を見通せないまま散策する明け方までの長い一夜で、ロブ=グリエ風な騙し絵の背景を横切っていくショットである。ロケーションの中に、それと相反する要素を紛れ込ませる編集は、この映画作家が、デビュー作から遠く隔たってしまった感慨=感動を与えてくれる。榎戸耕史の『やがて水に帰る』は、時間(=時代)を思い切り迷わせることでのみ紡がれる感情を、匿名的な水上からの視線のなかに解き放った稀有なる実験作である。

(映画監督)

 思えば監督デビュー作の『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』から、榎戸耕史は東京の街を漂流する男と女を息長くじっと見つめてきたのだった。撮影所なき時代に日本映画の荒野を渡り歩き、大学に新たな戦いの場を見いだした榎戸が、同じ職場で教鞭を執る仲間たちとともにつくりあげた『やがて水に帰る』は、見かけの新しさばかりがもてはやされる現代にあって、もはや何らかの〈継承〉の場でありえるのは大学しかないという確信、大学だけが異なる世代が意義ある衝突を繰り広げられる場であるという確信に支えられている。

 画面の一つ一つにどのような光が射し、どのような影が揺らいでいるか。そして人物と人物とがどのように歩き、見つめあい、あるいは見つめあうことがないか。その流れをたどるうち、人は映画の豊かさというものが製作費の多寡とは何の関係もないことをあらためて思い知るだろう。

(映画批評)

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