榎戸耕史監督 インタビュー
――劇場用映画としては久しぶりの作品ですが、かなりの野心作ですね。
大学で教えるようになったこともあり、ここ数年はテレビドラマの演出が中心でした。どちらもやりがいのある仕事ではありますが、どこかで欲求不満がたまってしまって(笑)。映画ならではの自由さを欲していたのかもしれません。
――大学の共同研究という名目はお堅い印象を受けますが。
撮影の丸池さん、整音の山本さん、脚本の窪田くんなど、皆同じ思いを抱えていて、「そろそろ自分たちで何か撮ろうよ」と言い始めたのが5年前ぐらいの話でした。互いの研究費を持ち寄って毎年少しずつプロジェクトを進めていきました。おかげで完成まで丸四年もかかってしまいました。
――現代風ではない話ですが、脚本のコンセプトはどのようなものだったのですか。
原作ものなど、いろんな企画を検討しましたが、結局オリジナルでいこうということで、脚本の窪田が最初に書き上げたのが、地方を旅して道祖神などの拓本を取る男が、若い娘の死体の拓本を頼まれる話で、どこか内田百閒の幻想譚のような。さすがにこれは金もかかるし、ロケも大変そうでちょっと…ということで、そこに登場した三人(石上、雛子、矢内)の前史を東京でやったらということになり、「百閒の前だから漱石かな」と冗談めかして言っていたら、本当にそういう話に(笑)。
――夏、冬、春と三つの季節がありますが、撮影は順番に行ったのでしょうか。
大学の休みを使って少しずつ撮影しようということで、シノプシスの段階から、三つのブロックで物語が構成されていました。クランクインが2月でしたので、最初に撮影したのは第二ブロックの冬編。その時点で脚本として上がっていたのは第一、第二ブロックまでで、ラスト春編はまだ大まかな筋立てだけの状態でした。寺田さん演じる大学教授の山奥の家での正月の新年会のシークエンスだけ撮影し、その後夏に第一ブロック。最後が翌年の春休みに春のブロックというような撮影状況でしたので、その都度手探りでの撮影でした。
――印象的な船の場面を始め、東京のさまざまな「顔」が出てきます。ロケハンやロケなどの苦労はありましたか。
東京という街が主役の物語ですが、最初に撮影した冬編の先生の山の家は、厚木の奥でとても風格のある家が借りられました。後の夏と春は、石上の住処を、東京でも近代の記憶が残るような本郷あたりで、ヒロインの雛子は都心のマンションと決め、後は、掘割や川・運河などの水辺を舞台にしたいと考えていました。特に第3ブロックの春編で、主人公たちが旧掘割を船で回る描写が脚本に出てきましたので、市街編は都心で撮影しようと考え、場所を決めていきました。交渉や許可取りなどは地道にコツコツと、大変でしたが…。
榎戸 耕史
プロフィール 1952年生。上智大学卒業後、寺山修司、長谷川和彦、相米慎二といった1970~80年代を代表する先鋭的な映画作家たちの数々の伝説的な作品にスタッフとして携わったのち、『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』(1988)で監督としてデビュー。『ありふれた愛に関する調査』(1992)、『Zero WOMAN 警視庁0課の女』(1995)、『渇きの街』(1997)等の映画の他に、テレビドラマの演出も数多く手掛ける。2007年から桜美林大学芸術文化学群教授として後進の指導に当たっている。
――本編では、三つの章立てがバラバラになっています。
最初はもちろん順に繫いでいましたが、各章の時間的バランスが悪く、脚本の物語強度が弱いことが露見してしまい、良いアイデアが出てくるまでちょっと時間を置いてみようと編集を中断しました。再編集は3年目の春でした。編集の村石さんと、3つの船のシーンを軸に据えて、後は観たいシーンを思いつくままに編集してみました。それが今のつなぎです。平易なストーリーラインを壊しても良いかな、という思いでやってみましたが、こんなことが出来るのもこの映画作りならではかなと思いました。
最近は、映画やドラマの現場での技術の継承や人材を育てることが、だんだん困難になってきている現状を感じていましたので、大学での映像教育が、これまでの撮影所的な役割をある程度担わなければならないと、映画を教えながら感じていました。そういった意味では、プロと一緒に作品作りをすることで、少しでもそのような問題に何か新しいアプローチになるのではないかなと思っています。
――この物語には、どこか象徴的な意味合いが隠されているように感じるのですが。
予算がない作品ですから、シーンを多く重ねて話を作っていくということができず、登場人物も少ないために、それぞれの人物の意味合いが前面に出てしまっているとは思います。彼らの背景に託されたものが、かなり意味深だなと感じていました。ただ、お話で進める作品にしたくないというのが初めにあったこともあり、どうしても暗喩的な物語になってしまいました。
インタビュー
――教え子である学生さんがスタッフとして多数参加しているということですが、どのような体制だったのでしょうか。
各パートの技師やチーフは、教員や外部のプロでかためて、助手として学生に声をかけました。撮影が大きく三回(冬、夏、春)とあったので、その都度メンバーが入れ替わったり、卒業してしまったり、OBとして戻ってきてくれたりと、いろいろでした。いずれにしても学生諸君の力がなければとても完成できなかったのは間違いありません。機材や設備という点も含めて、大学という場があったからこそ成立した企画だと思っています。